赤色赤光

子どもの「座」が、伝えるもの。

2011年10月4日

もうすぐ運動会、だんだんと準備も整いつつあり、当日の好天を祈るばかりです。
さて、運動会に関連して、ひとつお知らせがあります。2学期から改めた子どもたちの座法について呼び名についてです。

たとえばこれまでは「お父さん座り」「お母さん座り」と呼んでいたものを、それぞれ「胡座」「正座」と正しく呼ぶこととしました。「お姉さん座り」は「横座り」、「お兄さん座り」は「長座り」というふうに、子どもたちのわかりやすさ本位であったものを改めて、正式な呼称としました。小学校に上がっても通用する呼び名に統一する。至極当然のことです。

その正座ですが、日本人の伝統的な座り方とされていますが、その歴史は意外に新しく江戸幕府が小笠原流の礼法を取り入れてからとか。確かに昔の僧侶も武士も、多くは正座ではなく、胡座、正しくは「結跏趺坐(けっかふざ)」の姿をとっています。結跏趺坐とは、お釈迦さまがお悟りをひらかれたお姿そのもの。昔の日本人は、その姿を高貴な座法として尊んできたようです。

ところで、なぜ仏像には座像と立像(りゅうぞう)があるのでしょうか。要約すれば、「座」とは深い思慮を表し、「立」とは、迅速な行動を表します。座る仏は、「もっと深く考えよ」と問いかけているし、立つ仏は「いますぐ救う」と発信しているのです。言い換えれば意識と行動。人間理性のこの二つが、私たちの生きる根拠であることを示しています。ちなみに、幼稚園の仏さまがすべて立像なのは、阿弥陀様が一切衆生を救済することを最大の願いとされているから。これを、「他力本願」といいます。

さて、幼稚園の子どもたちは、正座する場面こそあまりありませんが、毎日の日課では、椅子のまま黙想しています。それは、小さな仏そのもの。活発に跳躍する姿もすばらしいですが、全身で静かに佇む姿もすらばしい。仏が、その姿で意識と行動を示したように、座する子どもたちは、私たち大人にとても大切なことを教えてくれている、と思います。

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